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『二重生活』の哲学的考察?!2017.10.31 Tuesday
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オーストラリアには、年に一度、Japan Film Festival(日本映画祭) という催しがあります。
日本の文化をオーストラリア人にも知ってもらおうという意図なんでしょうね、いろいろな邦画を各都市で上映してくれます。
ブリスベンでは、先週金曜日から日曜日まで。
毎年、話には聞くんだけど、さほど邦画ファンでもない私は、今まで観にいったことありませんでした。
今回はガールズが高校の日本語の先生に教えてもらってきたので、行ってみるか・・・と、まずはどんな映画が上映されるのか調べてみました。
どれも「まあ観たら面白いだろうけど、どっちでもいっか」てな感じなのですが、
どーにも気になったのが、これ。
『二重生活』
哲学専攻の大学院生女子、珠(たま)ちゃんが主人公。対象を尾行することで、その人の生活を観察し、人間という実存について哲学的に考察して論文に書き上げる、という。昨年の作品みたいですね。
日本の俳優さん、女優さんって、ほんとにもう全然知らないのですが、「ドキュメンタリーを得意とする監督」には惹かれました。
わたし、こう見えて、大学で哲学を専攻したんですね。
その理由は、この映画の主人公、タマちゃんと同じ。
人間って、なぜ存在するんだろう?
なぜ生きているんだろう?
中学、高校時代からずっとずっと知りたかったテーマ。
高校時代は「倫社」が大好きだった。その答えがすぐ近くにありそうな気がして。
アリストテレスも、カントも、パスカルも、なんとなく近いよーな気がしたけれど、
倫社ではあまり突っ込まない、インドのウパニシャッド哲学にこそ真理がいっぱい隠されている気がして、とても気になったのです。
それで、哲学科。
でもマヌケなことに、大学のことちゃんと調べずに、共通一次の点数と、二次試験が得意科目な大学を選んじゃった(笑)。
お茶大には、インド哲学専門の教授がいなかったのです!!
入学してからは、合コン&遊びに夢中になって、完全にパープー女子大生(←死語ですか?)になってました。
結局、大学ではぜーんぜん哲学してませーん。
就職した頃はバブルだったから、馬車馬のように朝から晩まで働きづくめ。
もう「人間とは・・・?」なんて悠長に考えてるヒマなくなりました(まる)。
自分の話が長くなりましたが、そんな青春?時代でしたので、
『二重生活』主人公の大学院生タマちゃんが抱える課題に、とても興味惹かれました。
そして、それを論文としてまとめあげたときに、昇華されるだろうなっていうのも、すごく分かって。
だから、映画に興味あるというより、タマちゃんの論文に興味があったんだと思います。
だけど、この映画がブリスベンで上映される時間帯には先約がありまして。
そちらをすっぽかすべきかずいぶん迷ったのですが、どーしてもどーしても気になって映画を選んでしまいました。(すっぽかしちゃった方、ごめんなさい)
でも、先約すっぽかしてでも観にいって、本当によかったです。
映画としても、とてもすばらしい作品で、うちの家族もみんな絶賛してました。
私的にも大ヒット。この作品から、たくさんの哲学的(なのかな?)ヒントをもらいました。
ネット上で見かけるレビューとはだ〜いぶズレているようなんですけどね。
わたしはわたし(笑)
『二重生活』の《二重》の意味はとても深くて広いものだと思います。
単に、幸せな家庭生活vs裏で不倫 とか、高尚な学問への情熱vs下世話な好奇心 とか、そういう二重だけじゃなくて。
タマちゃんの論文をしめくくったのは「二重性(秘密)が人間に充実感をもたらす重要な要素」といった内容。
深い考察だと思います。
以下、私の勝手な感想文なので、映画の主題とはかけ離れているし、うまく表現できないから意味不明だと思うけど、自分のためにメモしておきます。
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人間って、一直線では生きていけない生き物なんですね。
メインディッシュとサイドディッシュが同時にあって、サイドディッシュってサラダとか温野菜とか、あまり興味あるものじゃなかったり、エネルギー源にはならないかもしれないけど、サイドがあるからこそメインがおいしく感じられるし、うまく消化できる。
メインにやっていることとは別の要素があるから、それが原動力になって、充実感が生まれる。
それと、エネルギーバランスのこと。本当はポジ・ネガの二元論では片付けられないんだけど、ポジ・ネガがバランスとれてニュートラルになってしまうと、原動力が失われる。
そのエネルギー源になるアンバランスなことって、概して決められた枠の外側にはみ出すことなのね。
社会常識とか、集団的価値観、道徳観、規則とか。
そういうものから、はみ出しすことって、生きていくうえでとても重要なことなんだ、と。
はみ出さないと、生きる力が生まれてこないのかもしれない。
だから、「人に言えないような秘密」があったり、「バレちゃってるけど、常識はずれな愚行」があったり、ない場合は他人のスキャンダルに身もだえする(笑)。
ルールから外れる行為って、必要悪、ライフラインだったんだ。
中学のとき「不良になりたい」って思ったのは、そういうことだったんだろう。
枠からはみ出ることで、湧いてくるエネルギーを吸収したかった。
日本は特に、「ふつう」でいることを求められる社会だからこそ、少し「ふつう」から外れるだけで、意外と簡単にその生きるエネルギーを得られるのかもしれない。
もしかしたら、縛りが厳しい社会ほど、肉体的、物理的に難しい社会ほど、心は生きやすいのかもしれない。
よく「好きなことは趣味にしておいたほうがいい。仕事にしないほうがいいよ」って言うよね。
「んなことないでしょ、好きなこと、仕事にしたほうが絶対楽しいでしょ」と思ってた。
でも、好きなこと仕事にしちゃうと、別のサイドディッシュが必要になるんだね。
私はサイドディッシュを次から次へとメインディッシュに置き換えて、そのたびに新たなサイドディッシュを見つけてきた。
でも、今のサイドディッシュ(音楽)は、サイドのまま大切にしようと思った。
これ以上のサイドディッシュはもう、きっと登場しないと思うから。
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映画の最後の最後に、英語に翻訳された3行の字幕
What you see me
What you want from me
I will never know
(だったかな?多少違うかも)
これ見て、涙が出ました。
悲しみでも切なさでもなく、真理に打たれた・・・というのか。
日本語では、こんな感じだったと思います。
あなたが私のことをどう思っているのか、
あなたが私をどうしたかったのか、
そんなことは私には分からない。
(この先、わたし流の解釈・・・)
分からないけど、それでいいのだ。
それがこの世で生きるってことなんだよ。
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